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比較について


This pen is longer.


上の例文は言ってしまえば中学校で習うような簡単な英文である。
要素として S=C の関係が成り立つ、 SVC の簡単な第二文型の構文だ。
longが比較級longerになっているが、文の要素は揃っているので誤文などでは全くない。

しかし、このような文を見たとき、怪訝な顔をする人も少なくはないだろう。
そう、いったいどれだけそのペンは長いのか。何と比べてるのか。
試しにこの記事を読んでる人も長いペンを想像してみてほしい。
20cm?15cmでも長いだろうか、もしかしたら1mくらいのおもちゃのペンを想像した人もいるだろう。
比較対象はいずれも一致しないままである。

このように例の文表現では、書き手や話し手がその長さの基準、比較対象を決めてもらってるといって差し支えない。
もちろんこのままでは、聞き手や読み手に取ってみれば「確かに(自分が思っているペンよりも)長い!」という人もいるだろうし、「(自分が思うペンよりも短いので)そうかな?」と否定する人もいるだろう。
ペンがこの世で1つしかない不変のものならともかく、ペンの長さの基準が個々人の中にあるのだから当然である。


ここで英語ではどのように基準を伝えるのかと言ったら、もちろんご存知、接続詞のthanである。

This pen is longer than that pen.


このような文章なら、受け手は為手の意図をある程度理解できるだろう。
そのペンよりも長い、ならば実際に見て比較すればわかることであるからだ。
「長い」を「なにより長いのか」を明確にしたことで受け手が容易に理解できるようになった。
もちろん後述するが、as long asをはじめとする接続詞など、比較対象を限定する表現などいくらでもある。


さて、このように比較というのは話し手、発信者の主観が伴うのはあきらかであることがわかった。

こうして見ると文語表現では「概して」、「一般的に」などの世間一般と比較される文章が見られるが、
これらは前述の英文のように「(筆者が思うに)概して」、「(少なくとも私が知る限りでは)一般的に」といった筆者の主観が含まれることを前提に文章が書かれていることは留意しなければならないのである。

そして、この I think や as long as I know でない事柄を提示するときに必要なのが主観以外の材料である。
例えば、統計であったり、誰それの著作の引用をしたり、「こういうデータがあって」、「この人と考えが同じで」といった新たな限定を付加することによって主観だけでない比較が初めて成立がなされるのである。

「ものを盗んではいけない。」、「裸で人前に出てはいけない。」という当たり前、そして普遍的と受け止められがちな明文でさえ
「(法律でしてはいけないと決まっているから)ものを盗んではいけない。」、「(周りのだれもそうしていないから)裸で人前に出てはいけない。」など個々の主観の前提が広範に及んでるだけであり、その実態は"I think this pen is longer."と全く変わりようがないのだ。


ここで一旦話を日常の会話の場面に移そう。
会話表現における比較は多く誤解が付きまとうことがある。
例えば「罪を犯した人物が(たまたま)○○のファンだった」といった報道を見て、一緒にいた知人が「やっぱり○○のファンは怖いね~」などといったとしよう。あなたは「○○の」ファンである。

あなたは自分とその人物を比べられたことに激しい嫌悪感を覚えるだろうか。少なくとも私だったら比べれるのは抵抗を感じてしまう。
そのファンの集合が全員が全員犯罪者かといったらもちろんそうではないであろうし、コンテンツが巨大なほど母集団が多くなればそういう人間も少なからずいるであろうことも自明の理であるからだ。
これこそ主語の大きい表現の罠である。
会話表現で「普通の人は~」や「みんなは~」といった表現はあくまで「(自分が思う)普通の人は~」、「(私の周りの)みんなは~」といった恣意的な主観に過ぎないのであり、これを突き詰め否定を強調して、さも自らの理論が一般に認められてるものだと宣言してしまうと排他的な選民思想に繋がりかねない。(または質の悪いノスタルジアか。)

とりわけ集団や組織だとか、言語に始まる文化、そして経済等抽象的かつ大きな話題に関してはできる限り前述のような表現を用いないか、主観以外の材料を用いて展開していくことが望ましいだろう。



私たちは知らず知らずのうちに比較をして物事を判断する。
それも無意識に、そして生きている上なら必ず。
物事の大小を理解していなければ損得の分別もつかないし、空腹か満腹かの違いかもわからなかったら生きることすらままならないかもしれない。
しかし、やはり比較は物事を自分が主観的に見た結果に過ぎない、自分の意見が一般論になることはほぼほぼありえない。
文章ならば書き手の考えは読み手に一方的であり、筆者の考えとして噛み砕ける余裕があるのでまだいいが、対話をして熱が入ると、自分の会話のゆらぎをなくすためについつい前述のような言葉を断定表現を伴って使ってしまいがちである。
そんなときは第一に聞き手との互の主観の齟齬を確認すべきだし、その齟齬の発見によって自分の新たな比較への見識が開かれることを忘れてはならない。


もちろん、"This is just my opinion."である。



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